善さん雑記帳  〜骨董屋は夢見る〜     
平成12年10月24日分〜至平成16年8月                          お暇な時に読んでください。。。。

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平成12年10月24日更新

  
 
骨董屋というの職業は他の商売に比べてその商う品物が
本当に好きでなくては出来ません。(そうでもないか(^^;)?)ですから
扱う品物の中には「これだけは売りたくないなぁ」と思う品もしばしばあります。
でも売らなければ店が潰れてしまうので泣く泣く手放します。
骨董屋が物を蒐めてはいけない蒐めるのはお客様だとこの道の先達は言いますが
まだまだ若い故(因みに善さんは47歳のおやじです)、物欲は捨てきれませんね。
そんな訳で私はコレクションは持っておりませんが、そこは良くしたもので
骨董とは言っても、ゆえん生活道具・消耗品でもあり、その残欠・傷物なら値段がぐんと
格安で手に入ります。私はこれらを商売・生活にさわらない程度で自分の物にします。
このページの写真は丹波の赤土部の大壺で江戸初期頃のものです。
この壺、後ろ側は割れて塗料でベッタリですが、前身は焦げの部分も無事で見所充分!
500円で買ったケヤキのこれも傷んだ将棋盤の上に置けば力強く見飽きません。
ささやかですが、骨董屋である私はこの様にして蒐集欲から来るフラストレーションを
紛らわせているのです。


平成12年12月14日更新
  
作家出久根達郎氏の小説に、
『古本屋は在りもしない希本を夢想し入手を常に夢見ている』
という意味の事が書いてありましたが、骨董屋も正に然りです。
ある日、電話がかかり「古い物がいっぱいある。取りに来て欲しい」との事。
喜び勇んで出掛けると10年程前の食器類。
なるほど10年前でも“一昔”と言うではないか。
人様にとっては「古い物」に違いないと納得する。
出久根氏は古書店主で古書のエキスパートですが、
或る中編の中のネタ本の記述に間違いがあり私がその事を連絡した処、
お礼の手紙と署名本をいただきました。
氏はその後、直木賞をとられてその手紙は私の宝物となっています。
骨董屋もプロですが、如何せん古物という物、その数限りなく、
プロとはいえ総てに精通しているとは言えません。
そこに掘り出しの妙味が有り、私もその妙味を味わう為に
骨董屋を続けているのです。
[しかし、こんな事はめったとないネ(^^;)]


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平成13年1月18日更新

  
大雪になりました。雪が降ると喜ぶのは犬。となりのビーグルも寒さに
負けず庭を走っています。
骨董屋は犬を客が『居ぬ』といって嫌うと言いますが、
私は骨董の犬は大好きです。
犬の絵の皿、子犬の絵の掛け軸、蒔絵に人形・・・しかし、なかなか無いですね。
その他に象、蝙蝠も大好きでこの図柄があれば直ぐに買ってしまいます。
今月の更新にも何点か掲載しました。
今年もみなさんに珍品を探して楽しんでいただければと思います。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。



平成13年2月21日更新   エジプト編その1
  
昨年初冬、念願叶ってエジプトへ行って来ました。
関空より直行便が出るようになって14時間余りでエジプトに着きます。
エジプト航空は飛行機で唯一タバコの吸える航空便ですから、
私の様な愛煙家にとっては大変楽です。
もっとも家内は絶対嫌煙なので禁煙席からせっせと
一番後ろのパーサーやスチュワーデスのたむろする処まで散歩します。
但し酒はイスラムの規律により一切出ませんから必要な方は
持ち込まねばなりません。
発つ時にワインの小瓶をくれますが、生温いのはどもうね・・・。
午後の2時頃出発して夜の9時頃着く訳ですが、
時差もあり家を出てから約1日がかりでの到着となりました。
カイロ空港からホテルまでのバスの中、ピラミッドが闇夜に煙の様に
浮かんで来た時はとうとう来たのだと嬉しくなりました。
子供の頃、科学雑誌や世界の不思議物語などの本で見たその実物が
目の前にあるのです。
ホテルの窓からも十分に見ることが出来ました。翌日はピラミッドに登り、
その中にも入りました。
私たちが入ったのはメンカウラー王のピラミッドでしたが、
沢山の人が入場を待って並んでおり、私たちが入り口にさしかかった正にその時、
1人の外国人女性が息も絶え絶えといった感じで
ピラミッドの中から転がり出て来たのです。
私は大変イヤな予感に取りつかれながらも人々の流れに沿って中へと入りました。
時間は午後のもっとも暑い時です。ピラミッドの中はいやに蒸し暑く汗は流れ、
通路は低く屈んで通らなくてはなりません。
その時、私は突然の恐怖に襲われ急いで外に飛び出したのです。
そう、まるでファラオの呪いに触れた様に・・・。(つづく)


平成13年3月22日更新   エジプト編その2

ファラオに呪われたと思った私は急いでピラミッドを飛び出しました。
気分を落ち着ける為に日陰の石の上に腰をおろし(エジプトの日差しは強くても
乾燥しているので日陰は大変涼しい)、煙草に火を付けました。
一服していると白いアラブの衣装をまとった老人が現れ、私に煙草をくれと言います。
一本やって火を付けてやると、今度は私のその百円ライターを見て
「これと交換しないか」と銅板で作ったピラミッドの模型を差し出すではありませんか。
私は嬉しくなって、喜んでその交換に応じました。
なんと老人は土産物売りだったのです。
エジプトの観光名所にはすべからくこうした物売りの少年、中年、老人が沢山いて、
バスの発着所や遺跡までの順路で声を掛けてきます。 
「***1000円!」あるいは「***10ドル!」といった具合です。
これは相手の観光客の国籍を見分けて叫ぶ様です。
エジプトの通貨はエジプトポンドとその下の単位のピアストル(1ポンド約33円)ですが、
彼らは何と言っても外貨が稼ぎたいのです。
あるところで私が「日本の500円玉でもいいか」と言ったら受け取りました。
普通は外国のコインなんか受け取らないよね。。。(^^;)  (つづく)


平成13年4月25日更新   エジプト編その3

エジプトツアーの朝はいつも早いです。
流石アフリカ大陸、移動の時間も長く、それに午前の涼しい内に
という事もあるのでしょう、
アブシンベルに行く三日目は夜中の3時半に起きなくてはなりません。
そして着いてから神殿までは、砂の小山をかなりの距離を歩かねばなりません。
必ず軽装で行かれることをお薦めします。
アスワンでの泊まりはコテージ風の小さな平屋で
高層ホテルとはまた違った味わいがありました。
通りを隔ててスーク(バザール)があるというので早速出掛けました。
スークには衣類・食品・雑貨・金銀・土産物、小さな店が沢山つらなっています。
日本人と見ると盛んに声を掛けて来ます。
『ミルダケ・タダ』『バザール・デ・ゴザール』・・・無視して通ると、
すかさず『サラバジャ』・・・ホント誰が教えたのかね(^^;)。
私はここで石のスカラベを買いました。
ガイド氏の話では、エジプトでは買い物はまず言い値の半額まで値切り、
そののち元値の70〜80%で折り合えとのことでしたが、
なんのなんの粘ればもっと安くなります。
買い物はUSドルが有利なので、スカラベの大きなやつが10ドルというのを
3ドルと言ってみたら、敵は「アンタ、3ドルではこれだ」と
豆粒ほどの物を指さすではありませんか。
私は内心「馬鹿者め!」と思いつつもう少し小さいのを手に取ると、
それは7ドル、これは8ドルと様々です。
ならば最初の大きなやつが良かろうと思い、
なおも『3ドル、3ドル』と叫び続けました。
かなり粘っていると、アラブ人は突然『ポンドは持っているか?』と言ったのです。
そしたら私は魔法にかけられたかのごとく、
ポケットをまさぐり10ポンド札を差し出していました。
アラブ人は私の手から先の3ドルと10ポンドをもぎ取ると
スカラベを紙に包み渡してくれました。
取引は成立したのです。そりゃそうですよね。360円が700円になったんですから。
私はこの時、まだファラオの呪いにかかっていたのですね。
だって私は10ポンドをただの33円と確信していたのですから。。。
後で女房に『バーカ』と言われて悔し涙にくれました。・・・・(つづく)


平成13年5月22日更新   エジプト編その4

ルクソールの神殿はナイルの川沿いに建てられた壮大な建造物です。
見上げるばかりの石像・石柱が立っており、上部のレリーフを見るには双眼鏡を
お薦めします。
神殿の外には掘り出した石辺がうず高くまた石垣の様に積み上げてあり、
ついつい私の骨董屋魂が頭をもたげて来ます。
ヒエログリフでも彫ってある石くれを何とかひとつ手に入れてくれようと
さんざん探し回りましたが、どれも一抱えもある大きな物ばかりなので
泣く泣く諦めました。
ルクソールのホテルもナイルが一望できる素晴らしい眺望で、
思わずジョー・スタッドフォードの『ユー・ビロング・トゥ・ミー』を口ずさみましたよ。
対岸には赤い山並みが連なりその奥に王家の谷があります。
ここでも近くに小さなスークが在ると聞き出掛けました。
ホテルを出るやいなや中年のアラブ人が近づいて来て「フレンド」と呼びかけます。
(彼もまた物売りなのです。)
石の置物だいらないか?というではありませんか。
ポケットから取り出したそれは黒い石の猫で、なかなかの優れ物です。
またまた値切ってやるべ!と思い「幾らじゃ」と訊ねます。
エジプトでは品物が欲しくなければ決して値段を訊いてはいけません。
強く「No!」と言って下さい。結局彼は信号2つ程の距離をついて来て高く売りつけようと
粘りましたが、これは私の勝ちで石猫を2ドルで買いました。
ファラオの呪いもルクソールまではついて来なかった様です。 (つづく・・・・)


平成13年6月21日更新  エジプト編その5
  
ルクソールでは、一泊して2日目は王家の谷へ行きます。
ホテルの対岸に見える赤い砂の山並みの中にあります。
道中、小高い丘に吉村作治氏の研究所があり、
氏が滞在していれば日本の国旗が揚がっているそうです。
王家の谷はビジターセンターがあり、そこからトラクターにトロッコを付けたような
シャトルバスが出ており数分で入り口のゲートに着きます。
まずガイド氏の案内で二つの王墓に入ります。
チケットひとつで三つまで入場できるので、その目印に入場券の半券の四隅を入り口で
番人が一隅づつちぎって目印にするのが大変面白い。
かの有名なツタンカーメンの墳墓もこの王家の谷にあり、
ここは別料金になります。(40ポンド)
他の王の墓に比べて本当に小さな墓ですが、棺のあるのはこの墓だけです。
ガラス張りの石棺の中に黄金の棺が横たわっていました。
ツタンカーメンの墓は撮影禁止なので入り口でカメラを取り上げられます。
次のハトシェプスト女王神殿でも何事も起こらず無事でした。
この日は呪いもなかったと思いきやカイロへ飛ぶ飛行機が遅れに遅れて
カイロのホテルに着いたのが夜の10時になりました。
でもそれから食事で飲んだ冷えたビールはこの旅行中最高に美味しかったですよ。
(・・・つづく)

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平成13年7月23日更新  エジプト編その6

エジプト紀行も終わりに近づいて来ておりますが、ここで閑話休題、
エジプトでのホテルの食事は朝と夜はバイキング、昼はエジプトの名物料理が出ます。
味は甘くも辛くもなく、エスニックですが美味しいです。
米もありますし、豆・羊・鳩・鳥など。但し、豚だけは絶対出ません。
デザートの甘い甘いケーキも食べてください。懐かしい味です。
飲み物は別料金で食事の際に注文します。紅茶は「シャーイ」と言います。
ウェイターに「シャーイ・プリーズ」と言うと喜びます。
(しかし、エジプトで試して欲しいのは町で見かけるグラスに入った紅茶、
砂糖たっぷりで甘い)コーヒーは総じてインスタント、まずいので飲まないように。
ビールは10〜15ポンドで瓶ビールが飲めます。
ワインは同様にグラスワイン、その他スプライト・コーラ・各種ジュースがあります。
勿論水もありますが、ホテルで売っている水は高いので外で買います。
(ペットボトル1リットル入り2ポンド)
ウィスキー等強いお酒がいる方はバーで飲めます。
タバコは「クレオパトラ」が有名。
これは空港の免税店で1カートン1000円(日本円)で買えます。町で買うと1箱3ポンド。
でも気を付けないとボラれます。そしたら「昨日はどこどこで3ポンドで買った」
と言えば3ポンドになります。
エジプトは本当にタバコ吸いの天国、飛行機をはじめどこでもOK。
ツアーでは遺跡や博物館への入場料は総て込みになっていましたが、カメラやビデオの
持ち込み、つまり撮影料が要ります。(10〜20ポンド)
アブシンベルの様にカメラのフラッシュは厳禁という所もあり、
もし間違ってフラッシュをたいてしまうと番人が飛んで来て
フィルムを取り上げたりします。
両替はエジプトに着いた最初の夜に必ずしておきましょう。
物価が低いので沢山は要りません。
2〜3千円を1ポンド・5ポンドといった低額紙幣に沢山換えておきましょう。
そして必ず必要なのが50ピアストル。エジプトではトイレに必ず番人がいるので
チップとしてあげます。
絶対にあげなくてはいけないという事はないのですが、
「バクシーシ」の気持ちの15円です。  (・・・つづく)



平成13年8月23日更新  エジプト編その7

エジプト旅行の後半のハイライトはアレキサンドリア。
カイロよりバスで3時間ほどかかります。
この地中海のほとりの町はローマとイスラムの文化が混じり合い、
エジプトの古代王朝とはまた違ったエキゾチシズムが感じられます。
アレキサンドリアのグレコローマン美術館は、それらの古美術品を陳列してあり、
興味深いです。
野良猫がたくさんおり、人なつこい。やはり、エジプトでは猫は神なのです。
ところで、後日帰国してから旅の写真を整理していたら、
この美術館の庭で撮った写真の中に大変奇妙な一枚があったのです。
それは石の門を通して私たち夫婦を写したものなのですが、
それを見て私は思わず叫び声をあげました。「何だ!この写真は!」。
そうなんです、そこに写っている私は髪の毛は今よりも白く、額も更にはげ上がり、
それはあたかも私の10年後を写したかのごとくなのです。
私は驚き、家内に見せると、曰わく「なるほど、これは確かに10年後だわ。
あんたの額は大いに後退している・・・。でも私は全然変わっていないわ〜。」。
消えたはずのファラオの呪いは続いていたのです。
アレキサンドリアから帰って来たその夜は、私たちは「ナイル川ディナークルーズ」に
でかけました。
ところが、これが、名前とは裏腹に船内の明かりは薄暗く、対岸は光に乏しく、
料理は少ない。音楽だけがやたら甲高く、連日の早起きのためにビール一杯で
眠り込んでしまいました。唇に何か触れたので、驚いて目を覚ますと
ベリーダンスのダンサーが怒っておりました。(・・・・つづく)


平成13年9月23日更新  エジプト編その8

長々と書き連ねて来ましたエジプト紀行もいよいよ最終回となりました。
旅の最終日はカイロの近郊を巡ります。
朝もやの中をまずはメンフィス。巨大なラムセス2世の像を建物の中で見学します。
庭には早くも土産物屋が開いており、人の良さそうな若者の店で、
砂埃にまみれた小さなヒヒの石像を「アンティークか?」と問うと、
違うとなかなか正直です。
「貴方は英語がうまい」等とおだてられながら買いました。
次にダハシュールに向かい、ピラミッドをふたつ見ます。
ギザ程ではありませんが、かなり大きい。
今回の旅の目的の一つに、生きたスカラベ・サクレ(日本語では糞転がしです)を
つかまえると言うのがあり、砂漠に点々と落ちている馬やラクダのフンをひっくり返して
みたのですが、流石、晩秋では虫一匹見つかりませんでした。
サッカラの階段ピラミッドを最後に、古代エジプト文明の遺跡を巡る旅は終わりました。
しかし、最後までファラオの呪いはついて廻り、楽しみにしていたハンハリーリの
バザールを、道中が混んで30分しか時間がとれず水タバコを楽しむことが
出来ませんでしたよ。
エジプトは活気溢れる国です。
皆さんも一度訪れて見て下さい。面白いこと請け合いです。  お・わ・り。


平成13年10月23日更新分  
                                        

 ホームページを設置しているお陰で、全国各地の骨董ファンの方々と
お知り合いになれる様になりました。
皆さん大変熱心でいらっしゃいます。骨董屋としては心強い限りです。
また、最近「うめばち」でお買い上げいただいた品物が情報誌の読者のページ等に
掲載されているのを拝見したりすると、大切にしていただいているのだなぁと、
我が子を嫁にやった様な気分で本当に嬉しく思います。
それにも増して当HPに様々な骨董に対する思いを寄せて下さるのも
骨董好きな店主としては楽しみな事です。
今回ご紹介させて頂く方は兵庫県にお住まいのNさん。
そば猪口がお好きで十数年かけての御蒐集とか。
特に古印判手の高台付きを入手されたいきさつは感動的でした。
皆さんもどうぞ骨董に関する苦労話、自慢話、掘り出し話など、
うめばちHPまでお寄せ下さい。
そして、皆さまでアンティーク・ライフを楽しんで行きましょう。


平成13年11月22日更新分

骨董屋にとって最も重要な仕事に仕入れがあります。
なにしろこの商売、「売るのは誰でも出来る、品物を揃えるのが難しい商売だ」、
と言われるくらいですから。
その仕入れの方法のひとつに、古物商ばかりで構成される取引の場、
古物市場があります。
私も方々の市場に出入りさせてもらっています、これが大変面白い、
多くは競り市で現金取引ですから真剣勝負なのですが、時にはユーモアを交え、
時には少々険悪になりながら市は進行していきます。
その市場の売買を巧みにさばいていくのがオークショナーすなわち振り手
と呼ばれる人物で、様々な品物(ジャンクからキュリオまで)を瞬時に値段をつけ
品物を競っていきます。
(大概はテレビなどでやっている芸能人チャリティーオークションと同じようなものです。)
私の行く市場の振り手はTさんが多く務めていて、60年輩の恰幅の良い人です。
この方俳句の方ではなかなか知られた方で、お茶からコンピューターまでこなす、
相当な趣味人で私も色々と教えてもらっています。
振り手は市の花形ですから豊富なキャリアがなくては出来ませんが、
この様なTさんでも、初めて見る品物が沢山あると言います、
そこはこの世界の面白さでもあり、骨董の面白さでもあるのでしょう。


平成13年12月21日更新分

 全国各地で行われている露店の骨董市もなかなか人気がある様で、
骨董の本には必ずガイドブックが付いていたりします。
確かにそこへ行けば沢山の店が出ており、その分多くの品物にも出会える訳ですから
骨董好きにはたまらない場所と言えるでしょう。
私も学生の頃、20年以上前ですが、京都の北野神社の近くに住んでいたので、
天神さんの縁日には良く出掛けたものです。
当時は何もわからず、アンティークの時計や蓄音機なんかを探しておりましたが、
伊万里なども現在と比べれば品物も多くはるかに安かった様に思います。
その頃に買った物で、黒漆の艶が本当に素晴らしいイングラハムの本四ツ丸時計は
今でも大事に持っていますし、三光堂の木製ポータブル蓄音機なんかは
なんと3,500円で掘り出した物です。
露店の良さは何と言っても骨董屋と違って戸を開けなくても良いのが一番いいですね。
気軽に見て廻れ商品を探す事が出来て店主と気軽に話しが出来る、
買わなくても一向に構わない気安さが非常にいいですね。
これはまるでHPみたいだね。
「うめばち」HPも骨董市が大好きな店主の露店への憧れなのかも知れません。
最後に本年も一年、皆様のご支援により、毎月欠かさずHPの更新を続けることが
出来ました。お礼申し上げます。
来年も更に良い品物をご紹介出来る様、頑張りますので、宜しくお願いいたします。
それでは、良いお年を。


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平成14年1月分はお休みです


平成14年2月25日更新分

 今年は例年に無く暖冬で、雪深い丹後も正月より三度ほどの積雪で済んでおります。
おかげで業者の市会も一度だけ休会にになった他は総て出来ました。
私の子供の頃昭和三十年代は本当に雪がよく降りました。
一晩で40〜50cmも積もり、やむなく屋根の雪下ろしを手伝ったものです。
当時は11月の中頃に初雪があり、2月の節分の頃が降雪のピークになりました。
今年は節分もまったく雪がなくこれも温暖化傾向になっているのでしょうか。
節分と言えば、これも子供の頃に家で豆まきをしました。
そして、夕げの済んだ時分、祖母が升に入った煎った大豆を家族一人々々の歳の分
だけ半紙につつみ通りの十字路に捨てに行ったものです。
このときは帰路にはうしろを振り返ってはならない事になっていました。
こうして家族の無病息災を昔の人は祈ったのですね。
今でも節分の頃になると豆を数える祖母の姿を
香ばしい大豆のかおりと共に懐かしく思い出します。
とまれ骨董にもこの様なある種、懐かしさを感じる部分があり、
それはただ単に旧懐的な感傷ではなく人の心の琴線にまで触れるアトモスフィアが
ある様な気がしてならないのです。


平成14年3月26日更新分 

前回は暖冬と書きましたが、春も早く、今回の更新時には
すでに桜も散っている地方も有るかもしれません。
うめばち店主も暖かさに誘われて重い腰を上げ、コンピューターを習いに通って
おります。
モノになったら店主こだわりの書画のページを作成しようと構想を練っております。
請うご期待!
 さて、3月と言えば映画好きにはアカデミー賞があります。
このころはBS等で授賞式を生で放送しますので、大変身近に見られるように
なりました。
私は映画、特にアメリカ映画が好きなので、ついずるずると見てしまいます。
(NHKも受賞作一挙何本放送とか言って盛り上げております。
しかし、過去に放送したモノばかりだね)
私は勿論、作品賞・主演賞といった派手なところも好きですが、
授賞式の会場に集まるスターやスタッフを見るのが面白い。
インタビューを受けているスターの後ろを歩いている俳優に思わぬ人を見つけるのは
楽しいですね。
それに特別賞やサルバーグ賞は過去に実績のあった映画人に送られるので
今年は誰が貰うのか大変興味深い。昨年なんかN.ジェイソンだもんね。
でもCG流行の昨今、今後は映画監督も名匠などと呼ばれる人は出てこない
かもしれませんね。
私はCG大好きですが、ワイラーの「ベン・ハー」やリドリー・スコットの「グラディエイター」
はたまた「史上最大の作戦」と「プライベート・ライアン」を比べると
どうも映画が小さくなっている気がしてならないのです。


平成14年4月24日更新分

 思いつくままに書き継いでいる雑記帳ですが、
中には読んでくださる方もいらっしゃるみたいで感想をメールで下さいます。
前回はアカデミー賞のことを書いたら、長崎県のHさんよりお便りがありました。
今年のアカデミー賞は主演賞の二人が黒人であったと言うことで話題になり、
特に主演の女優がハル・ベリーでこれはオスカー史上初のことだったので驚いたと
書いてありました。
確かに受賞の時の彼女の涙涙で嬉しくてたまらないといった様子でした。
特別賞もS・ポワチエでD・ワシントンも、あなたがいたからやってこれたと
スピーチで言っていましたが
同様にH・ベリーもD・ダンドリッチやD・キャロルがいたからここまでこれたと
言っていたのが感動的でした。
過去にも黒人俳優がオスカーを受賞した例は何度もありますが、
一番最初は「風」におけるハッティ・マクダニエルが助演女優賞を取ったのが初で
(もっとも戦前は黒人が主演などやれなかったわけですが)
その後、1963年のS・ポワチエが初の主演男優賞な訳です。
そして、ルイスゴセット・ジュニアやD・ワシントン、W・ゴールドバーグなどの受賞は
全て助演賞だったわけですから、今回の主演女優賞はオスカーの歴史にとって
ひとつのエポックになるのでしょう。
しかし、これも意地の悪い見方をすればハッティの時は「第二次世界大戦」を
間近に控えていた時、ポワチエの場合は「ベトナム」が泥沼化し公民権運動が
ピークを迎えていた時、そして今回はニューヨークテロ。
オスカーは名前の通りアカデミックでリベラルな協会員の投票で選ばれるとは言え、
アメリカの歴史のエポックとなるときには常に黒人に対してヨイショをする
政治のキナ臭さが見え隠れするようにも思われて仕方がないのです。
中年の僻みでしょうかね。・・・・・・・つづく。


平成14年5月22日更新分
         

 5月は日本全国祭りのシーズンでテレビのニュースでも各地で祭りが行われている
様子ですね。当地でも5月15日は宮津祭りです。
今年は人手が足らずうめばち主人もかり出され神輿を担いで来ましたよ。
宮津では西と東に地区が分かれ、私が居るのは東地区になるので
分岐ノ宮神社の氏子と言うことになり分岐ノ宮神社の神輿を担ぐわけです。
この神社は今では町の中程にありますが、江戸の昔は海岸沿いにあったので
境内の岩には貝殻の付いた石があるので有名です。
12時に神社に集合した氏子達は整列して神様のお出ましを待ちます。
神主が奇声をあげる中、長く白い布をたらした傘の中に入って、
祭壇より神様がしずしずとおい出になります。(ご神体はよく見えません)。
無事神様が神輿に乗り移られたところでいよいよ出発します。
神楽が舞われ手を締めての出陣です。しかしこれがなかなか重い。
それに最近の若い人は背が高いので肩が届かないのですよ。
ようやく横棒に取り付いて姿勢を整えました。
町内を隈無く練り歩き定刻の6時半に宮入となりました。
しかしその宮入の凄まじいこと、神社までの道を何度も行きつ戻りつし、
更にはお宮の前の広場では何周も何周も神輿を担いで周り、疲れ果てたころに
宮入しました。
神様も年に一度の町見物なので帰りたくないんですね。
お陰で翌日は足腰肩が痛く立ち上がれませんでしたよ。
でも神道の行事は興味深く面白い体験でした。・・・・つづく。


平成14年6月20日更新分

 レトロ屋うめばちもお陰様で四周年を無事迎える事が出来ましたのは、
ひとえに皆様方のご支援のたまものと深く感謝いたし厚く御礼申し上げます。
 四年前の5月、ケンカ別れの様にして、サラリーマンをやめてから始めた
骨董屋ですが、始めた当初は商売も思うにまかせずその秋より開設した
ホームページもなかなかアクセスも無くどうにかこうにか細々と喰いつないでいたのも
今から思えば懐かしい次第です。
そんななか多くの方々や、また雑誌社の方の協力により、
「レトロ屋うめばち」の名前が少しは世間に知られる様になり、
今では顧客様も増え当店のHPを毎月楽しみにしていただける様にまで成ってまいりました。
今後も力の続く限り良品を当店のモットーであります『田舎は骨董が安い!』のごとく
御紹介して行ける様にと願っております。
どうぞごれからも宜しくお付き合いの程、お願い申し上げます。
最後にこのHPの制作を当初より文句も言わずに続けてくれている「おやびん」事、
私の家内にも感謝の意を表して五年目に入る店主の御礼の言葉といたします。
ありがとうございました。・・・・つづく。


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 平成14年7月24日更新分
         

                 =暑中お見舞い申し上げます=

 当方田舎の小さな骨董屋ですが、それでも商売に関するチラシや広告等のオファーが
しばしば舞い込んできます。
なかなか条件的に見合う話は少ないのですが、
今回の雑誌「ガイヤ」の取材はホストとの対談形式で「うめばち」を紹介するというので
面白そうだし、出たがり屋のうめばち主人は喜んで引き受けました。
先方は京都特集と言うことで「うめばち」も京都市近郊にあると思っていたのか、
電話での打ち合わせ時、京都からなら2時間半はかかると言ったら一瞬沈黙が
訪れましたよ。
取材当日は夕刻より大雨となり、流石雨男の面目躍如といった模様でしたが、
ホストの輪島功一さんは嫌な顔一つせず終始元気で賑やかに対談は終了しました。
ガイヤ誌は8月12日に発売されます。
内容は「うめばち」の営業コンセプトや今後の展望などです。
宜しかったら一度読んでみてください。
 6月は4周年セールで出品点数を増やしたためいささか商品集めが厳しくなりました。
市場も夏枯れ状態です。でも頑張っていきますのでよろしく。・・・・・・つづく


 平成14年8月22日更新分
                 
 今年の夏も猛暑でこの傾向は年々強くなる様子です。
しかし8月19日の台風が過ぎた日は一気に涼しさが来て、
それまでやかましかったセミの声もとたんに聞こえなくなりました。
我が家の裏庭は土なので夏になるとセミが出て来ます。
ニイニイから始まってアブラゼミが鳴き始めると暑さも一段と強まります。
セミと言えば私も子供の頃、夏休みの宿題で昆虫採集をやりました。
幸い母の実家が奥丹の田舎だったので虫捕りは苦労はしませんでした。
しかし、大体のセミの種類は捕まえる事は出来ましたが、
クマゼミだけは取れませんでした。
当時はクマゼミは山遠くおそろしい高い木のこずえに居て
、ほとんど姿を見ることが出来なかったものですが、
近頃では我が家の狭い庭の栗の木でも鳴いています。
そう言えばお盆のころより鳴き出すヒグラシも七月の頃より鳴いています。
何か気候そのものが地球規模で変わりつつある様に思えます。
骨董屋などというのんびりとした商売をしているとセミの声にも敏感になりますよ。
・・・・・・つづく


平成14年9月22日更新分

 めっきり秋らしくなってきました。
うめばち主人は夏の暑い盛りの蔵出しがたたり涼風が吹くこの頃疲れがどっと
押し寄せてきましたよ。
しかし、毎月の更新の締め切りが容赦なくやってくるのでその準備に追われていると、
ふと足をなめられました。
あっと思って振り向くとなんとお隣のビーグルが柵を乗り越え遊びに来たのです。
飼い主に内緒で菓子などをやっている為、なついてしまったのですね。
可愛いものではありませんか。
うちのおやびんは犬を飼いたがっていますが、以前ビーパルを読んで
川魚を飼っていたことがありよくなついてくれましたが、魚でさえ死ぬと悲しいものですから
犬なんかは尚更と思い反対しています。
その点、古玩は死ぬ事はありませんし少々ほったらかしにしておいても
ホコリを掃ってやれば生き返ります。
土物なんか使えば使うほど育っていくヤツもありますからね。
とかなんとか言って手前味噌になりましたが、今月も宜しくお願いいたします。
・・・・・・つづく


平成14年10月17日更新分は都合によりこのコーナーはお休みでした。


平成14年11月21日更新分

 NHKのBSでアメリカ映画ベスト100というのを放送していました。
映画大好きのうめばち主人は興味深く毎晩見ていました。
どの作品も有名な映画ばかりなので殆ど見てきた映画ですが、
果たしてどの映画がベスト1になるのか想像もつきませんでした。
恐らく、『風と共に去りぬ』か『ゴッドファーザー』であるかと思っていたのですが
結果は『市民ケーン』。
納得と言えばそうなのですが、日本ではATGにより公開された内容よりもトーランドの
パンフォーカスの撮影の方がはるかに有名なこのモノクロの地味な映画をベスト1に
選んだのは、アメリカ映画100年の意地みたいでしたね。
ゲストも豪華で皆な映画が大好きといった感じ。
ウーピーの『オズ』評:「この映画は白黒で途中でカラーに変わるのだけど
我が家のTVは白黒だった。
だけど私はこの事を知っていたからよその家のカラーTVで見た」。
これは正に映画ファンの気質ですよ。
フランク・キャプラの映画が多かったのは、やはり日本人が「寅さん」が好きと言うのと
通じるところがありますね。
歴史のエポックという作品、例えば『国民の創生』『ジャズシンガー』
新しいところでは『イージーライダー』『俺たちに明日はない』等、
『フランケンシュタイン』や『キングコング』が出てきたのはよかったですね。
そしてワイルダーやカザン、ヒッチコック作品がいつも入っているし、
リーンの映画も出てくる。
彼らははっきり言ってアメリカ人ではないのですが、流石に人種の坩堝のアメリカ、
資本提供がアメリカなら国籍なんて関係ない、こんなこの国の懐の深さには
本当に関心します。
そしてまた、松井がMLBに行くというニュースを聞くと、
来るなら来い、「Come and get it!」だ、
成功しろよと声援を送る。私はこういうアメリカは大好きです。


平成14年12月19日更新分        

 2002年も無事最後の更新を終える事が出来ました。
これもひとえに皆様の御支援の賜物と深く感謝いたしております。
この業界も不況のあおりで、良い物が不足気味で
毎月ごとの品物を集めるのに、なかなか大変です。
 来年もさらに佳品・珍品をご紹介するべく頑張りますので、
宜しくお願い申し上げます。

 それでは、どうぞ良いお年を。


平成12年10月〜12月
平成13年1月〜6月
(エジプト編)
平成13年7月〜12月
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平成15年1月20日更新分

  20003年明けましておめでとうございます。
どうぞ本年も宜しくご支援の程お願い申し上げます。
今年の正月は大晦日よりの雨も上がり、穏やかな正月でした。
31日は夜遅くまで遊んでいたので殆ど寝正月、
そうしている間に4日あたりから店を開け様かと思っていたら行きが降って来ました。
少々のんびりし過ぎていると自分でも思います。
冬場は商品を集めるのが中々骨が折れますが、何とか更新にこぎつけました。
今年も佳品・珍品を探してHPを充実させていく様に頑張ります。
巷ではインフルエンザ等流行しておる模様。御体にはどうぞお気をつけて。


平成15年2月20日更新分
         

 今年はTV放送が始まってから50年になるそうです。
店主も1953年生まれなので、いわばTVと共に人生を歩んで来た様なものです。
当然、国営放送としてNHKが先鞭をつけたので他の民放はかかわりなく、
NHKのみ盛り上がっておりました。
我が家にテレビが来たのはおそらく昭和35〜6年頃と思いますが、殆ど記憶が
ありません。多分学校に行っている間に来たのでしょう。
でも初めて見たTV番組すら今では思い出せません。
その頃はフルタイムの放送ではなく
画面の歪みを正すテストパターンなる丸に十字様の画面を写す放送なんかが
ありましたね。
その後はTVはカラー放送、BS、ワイド画面、ハイビジョンと進化し続けています。
しかし、これらの変遷もいつどのように変わって来たか、
記憶にないのは私はTVよりも映画人間であり、また、活字人間であるからでしょう。


平成15年3月21日更新分

 春眠暁を覚えず・・・パーソナリティの善さんが冬眠ならぬ春眠中で
夢を見ている様なので、今回は代わりにおやびんがお相手させていただきます。
3月20日未明にアメリカがイラクを攻めて戦争が始まってしまいましたが
これから宇宙船『地球号』はどこへ行くと言うのでしょうか?
かの地は紀元前3000年頃にチグリス・ユーフラテス川一帯にメソポタミア文明が
栄えたところです。
砂漠には未だ多くの歴史的遺産が埋もれている可能性があるのだと考古学者たちは
言っています。
エジプトのスフィンクスもナポレオンが射撃の標的にしたので鼻先が無残にも
無くなっていました。
最近ではタリバンがバーミアンの石窟仏を跡形も無く破壊してしまいました。
先人が残してくれた素晴らしい遺産が失われることは本当に心が痛むものです。
歴史的遺産の様に素晴らしい骨董は手元には勿論ありませんが、
善さんに嫁いできて知らぬうちに古いものの良さに気づくことが出来たことを
本当に嬉しく思います。
骨董屋を始めてからは、長い年月を過ごしてきた「もの達」を愛おしく思う様に
なりました。見方をちょっと変えるだけで人は幸せにも不幸にもなります。
こんな時代だからこそ、ものの豊かさではなく心の豊かさをもっと見つめて
いきたいものですね。 今回は・・・byおやびん


平成15年4月22日更新分
         

 毎日新聞に連載中の逢坂剛の「墓石の伝説」が面白い。
氏はご存知の通り「カディスの赤い星」で弟96回直木賞を受けた冒険小説家であるが、
片方ではマスコミによく取り上げられる様に大の西部劇ファンでもある。
この物語の主人公は西部劇映画のパンフレットがもとで日本人でありながら
西部劇を作ろうとしている映画監督と知り合い、その西部劇に関する造詣の深さを知り
興味を持ったのだが、そのライバルである西部研究家なる人物が更に登場して
ペダンティックな映画談義を御開帳するのだが、
西部劇ファンにとってはこれが大変面白い。
例えば、リオ・ブラボーの冒頭、D・マーティンが現れるシーンのバックには「吹き荒ぶ風」
の音楽が流れる。こんな事は私は初めて聞きましたよ。
また、「シェーン」におけるJ・パランスの殺し屋のすごさを表現するために、
パランスが酒場に登場するシーンでは酒場の中にいた犬が逃げ出す場面がある等々、
思わずビデオをチェックしなくてはと思いますよ。
しかし、この二人のオールドタイマーはビデオを軽蔑しては
何かと主人公にわし等はこれを銀幕で見たのだと、ビデオ世代を馬鹿にするのです。
けれど、この気持ちはうめばち主人にも良くわかります。
そりゃビデオより劇場の大スクリーンで見る映画は迫力があり印象的です。
当地の様に映画館の無い地方都市に居る者はついつい手軽なビデオに手が出ます。
「ハリー・ポッター」や「ロード・オブ・ザ・リング」今流行のブラッカ・マイヤーの映画なんか
大スクリーンで見れば少しは面白く感じるかも知れませんね。
でも心配なのは新「スター・ウォーズ」これこそ映画館で見たい作品ですが、
結末はどうなるのでしょうね?
だんだん暗くなって行く内容に救いのある結末はあるのでしょうか。・・・・・つづく


平成15年5月23日更新分
         

 薫風の5月といいますが、丹後も年間でもっとも気候の良い時期です。
しかし今年の祭りは5月14日・15日とも雨で太鼓を打つ子供たちの世話で
大忙しでしたよ。
ところがその間に宮津では大変な事が起こっていたのです。
例の台湾のあのお医者さん、天橋立や成相山に登り、
宮津のホテルに泊まっていたのですね。
当方、祭りにかまけていたのですが、メールで知り驚きました。
天橋立もホテルも宮津市内から少々離れているので、
直接うつされる事は無いとは思うものの少々のどが痛くなれば、ン?と思いましたよ。
5月22日に安全宣言が出て一人の感染者も出ずに終結しましたが、
SARSなんて本当に対岸の火事といったくらいにしか思っていなかったのですが、
地球も狭くなったものです。
という事で丹後の宮津も安全です。
気候も一番良い時、どうぞ一度遊びに来てください。・・・・・つづく


平成15年6月24日更新分

 脱サラして始めたこの商売でしたが、皆様のご支援を受けて5年を迎えることと
なりました。厚く御礼申し上げます。
始めた当初はなかなか注文もいただけず、どうなる事かと思っておりましたが、
初めてご注文をいただいた富山の方、今でもその感激を忘れずにいます。
本当にありがとうございました。
昨今はなかなか良い品を集めるのが品不足でもあり難しくなっておりますが、
また初心にかえり頑張りたいと思っております。
これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。
例年の周年セールささやかではありますが、
いつもどおり送料サービスとさせていただきます。
お気に召した品がございましたら、1点なりともご注文お寄せくださいませ。
ありがとうございます。(うめばち店主)


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平成15年7月23日更新分

  5周年記念セールも無事終わり、一息つく間もなく7月の更新となりました。
周年セールは沢山のご注文をくださり、本当に感謝いたしております。
今後とも引き続きご支援を賜ります様、宜しくお願い申し上げます。

 雑記帳を書いていたらとなりのビーグルが又々、遊びにやって来ましたよ。
飼い主が留守の間に菓子なんかをやっていたら、懐いてしまったのですね。
別に何をするわけでもないですが、頭を撫でてやるとしっぽを振って可愛いものですね。
犬の好きな人の気持ちが良く判ります。
犬と言えば、私の子供の頃は、近所で飼われている犬と言えばどれも雑種の犬
ばかりでした。
子供のころはコロコロとして可愛いのですが、
長ずるにほっそりとした変な犬になってその落差に驚かされたものです。
昨今は雑種の犬なんて見ませんね。
私でさえ、遠目で見ても犬種を言えるほど、立派な犬ばかりです。
昭和30年代も遠くなりにけりです。

 ボーナスの無い自営業を哀れんで、おやびんがDVDプレーヤーを買ってくれました。
この夏はクラシックの名画を楽しみたいものです。・・・・・つづく


平成15年8月23日更新分

 今年の夏は天候が不順で冷夏と思えば一転して暑くなったりで
体がついていきません。
ニュースでは日照不足による野菜の値段の高騰を伝え、この秋は米も不作であろうと
言っています。
そう言えば、庭の蝉も鳴きだすのが遅く鳴きだしたと思ったら、早くもヒグラシが
鳴き始めました。
虫の世界も異変が起きているのかもしれません。

 お盆も墓掃除に行く日は朝のうちに雨が降り、昼かけて行ったので店を休み、
あくる日は大雨で店を休みしている間に盆の間はすっかり休みにしてしまいました。
帰省で帰って来られて来店いただいた方がいらっしゃいました様ですが、
大変失礼致しました。
8月16日は日本三大灯篭流しの花火大会でしたが、
おやびんが言うには今年は花火もショボかったと言ってました。
不景気なのですね。
まだまだ残暑が続くようです。お体には気をつけて夏を乗り切りましょう。・・・・・つづく


平成15年9月24日更新分
         

 今回より当雑記帳は少々趣を変えてみて近頃入手の文書の内より
面白いモノが見つかりましたので、それをしばらく掲載してみようと思います。
その文書といいますのは、安政二年に宮津で生まれ、文書が手控えられた
昭和十三年当時八十四歳になった安達長蔵氏なる人物が語った昔話を、
郷土史家であった故沢村秀夫さんが覚書にしたものなのです。
それを今回再録してうめばち主人が少々のコメント説明を加えてみます。
私としても歴史を再考すると言う事と貴重な談話が散逸しない様にという目的のため
でもあります。
一地方の事柄なので前後の事情、固有名詞・方言等々わかりにくい処多々或るかとは
存知ますが、著名人も登場しますので宜しくお付き合い下さい。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(談その1)佐藤正持@の山王さんAの額はひどくなっている。
先年といってももう大分になりますが、
文麟Bという画家が来て見てこれは惜しいものだ、
今の中に修繕をして置かねばいかんといふので私や前尾さんCの先代やらが
奔走しましたが、都合でこのままとなり、その後来た礫堂Dという画家が来たときも
話が持ち上がりましたが、やはりいろんな都合で沙汰止みとなってしまいました。
今になってはどうも仕様がない様です。何しろあれに描いてある見物人なども、
その当時の町の人々の似顔絵が描き込んであるということで
町役をしてみえた三上さんEの先代なども家紋の付いた裃を着て出て
居られるそうです。
佐藤正持は江戸の人だが京都へ来て大内へ入って有識故実などを
相当調べたものらしく黒田氏F所蔵の掛け物を文麟が見て感心して居ました。
宮津では仏性寺Gにも居ったらしく仏性寺にはもとは沢山に描いたものが
ありました。私らの若い自分には道具屋の片隅なんかにもよくあって
(これは佐藤さんの絵だ。人物がよう肥えとる。)と話し合っていたものです。
署名のあるものは滅多にないがよくわかります。
正持は丈の低いよく肥えた人だったそうです。
有名な画家の菊池容斎Hさんが正持について学ばれたと言うことなどがわかって
近年相当喧しくなりました。
なんでも正持は江戸に居たとき折合いが悪いことがあって京都に来、
大内に入って勤王の風があったらしい。 ・・・・・つづく

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  @[正持] 佐藤理三郎。号は北溟。江戸の人で国学を平田篤胤、本居宣長、画は谷文晁に学んだ。
    安政四年没。正持は天保年間に宮津に滞在し小林之原が編纂した丹哥府誌の挿絵を描いた。

  A[山王さん]山王宮日吉神社。宮津市宮町にある大社。
    天保六年、その拝殿が城主本荘宗発によって再建され、
    次の宗秀公の代天保十二年に正持によって
    「山王宮祭礼の図」大額が描かれ掲げられた。
   (結城素明が著した「勤皇画家 佐藤正持」S19刊にはその写真が掲げられているが
    その時もう剥落甚だし)

  B[文麟]塩川円書。京都の人で四条派の画家。明治十年没。恐らく明治の早い時期に
    来丹と思われる。

  C[前尾さん]衆議院議員前尾繁三郎氏の祖父。

  D[礫堂]植木礫堂。兵庫県和田山町の画家。宮津にも遺墨多し。

  E[三上さん]宮津の造り酒屋。現在その屋敷は文化財として公開。

  F[黒田氏]宮津の造り酒屋。当時、蕪村を始めとして、書画を多く所蔵。恐らく文麟は正持の
    「三忠臣図」や「武者図」を見たのであろう。

  G[仏性寺]宮津市金屋谷にある古刹。正持の「源氏物語澪つくし図」の襖絵がある。

  H[菊池容斎]少年の頃から画を好み、高田円乗の門に入って狩野派を学び、
   のち探幽、応挙、文晁などの長所を採り、これに古土佐の画風を加味して独自の画風を形成した。
   明治十一年没。 


平成15年10月22日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・明治維新その@・・・・

 明治元年旧暦正月10日頃、京都を発して伏見の戦争がまだつづいている頃に
こちらへ廻られたらしい。
19日宮津着の予定だったのが21日日の暮8時頃みへて
丹波の馬地村に勢揃ひ薩長両藩一大隊位がお供をして亀岡、篠山。
福知山へはお立ちよりにならなかった。
慶応三年位、宮津、舞鶴藩が八幡へ出張してそのとき福知山藩不チョーホーをして
薩長方の士をとがめた。
それて福知山へはお立寄りにならなかった。
福知山のその士は切腹となった。
慶喜公@が大阪城を退去のとき、これに反対して
舞鶴と宮津が八幡の戦争に官軍に鉄砲を向けた。
西園寺Aさんが宮津へ来られる前に探偵が商人や何かになって調べに入ったそうだ。
北垣さんBなどもそうだった由。
一隊は波路から外側、柳縄手を廻って本町通り、倉田さんの角を曲がって
(袋屋の通り)三上さんに本陣があってそこへお入りになった。
正月21日の晩8時頃でした。
町のものは恐れてみんな戸をしめて門へ出るものはありませんでした。
丁度その時分軍艦が入っていて因州藩の艦で今でいへば、
何百トンというふ位のものでしたが、20日の晩に入って来た。
西園寺さんのことを御勅使さん、御勅使さんといって町のものなどは
御勅使さんといふ名前の人だと思っている者もあった。
西園寺さんは馬に乗ってみえ、おそばに五騎ついておりました。
皆、抜身でした。
薩長は軍服ダンブクロその外の篠山、園部、綾部、亀岡などは昔のいでたち蓑を
はおり陣羽織を着たりしていた。いふてみれば百姓のようなもの。
二三日は袋屋に長州の少将の大佐位の人小笠原美濃介。
浜の稲垣平左衛門に薩摩の隊長が泊まった。            

                                  ・・・・・つづく

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   @慶喜公  徳川慶喜。 江戸幕府最後の将軍。

   A西園寺さん  西園寺公望。  山陰道鎮撫使。

   B北垣さん  北垣晋太郎、のち国道。  明治14〜24年京都府知事。



平成15年11月24日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・明治維新そのA・・・・

 一行が来津の前には城中の評定に一戦やらうかという議もあったが、
一隊を普甲峠に一隊を栗田峠に出して要撃するという人もあったがそんなことで
一時は戦勝ってもこちらは限りがある向方はいくらでもやって来る駄目だということになった。
その頃は御家老もあまり時の趨勢というものを知らない。
河瀬秀治@さんの若い時分に京都の景気をみるために二・三人随行をつれて行ってみえた。
慶応三年頃迄をって大そう費用を用った。
不首尾になって帰国、自宅に謹慎していた。呼び出しが来た。
出なかったという説もあるが、関さんが極力出ることをすすめて、
河瀬さんが御本陣へ御挨拶に裃をきて、薩摩・長州・その他の本部へ御挨拶に出た。
まずまず事なしに済んだが、お許可なければ家中一同が麻裃を着てお詫びに行き、
それでも御承知がなければ、八幡のはちまんの■■■の首を切って
お詫びに挨拶しようという話があったのです。
徳川さんが大阪城に蟄居。藤堂と桑名が出て、
今おかえしするときではないといって大阪から八幡へ兵を進め、
宮津藩にもやってくれと頼んだ。
それで山から官軍に向けて発砲した。隊長の関さんが他行している間、
休憩していて居らなかった内に起こったこと。
柴田要などの人達、一人、二人連れで夫々に落ちのびた。
八幡の山から■への方へ逃げて、裏越し裏越しで戻った。
三日も四日もかかって、鉄砲もかかえて刀を背中に背負ったりして
一人二人づつみすぼらしい風で帰って来て、こっそり家に蟄居していた。
間もなく西園寺さんが来られた。それで三人の首を切ってお詫びしなければならんかも知れぬ

                                  ・・・・・つづく

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   @河瀬秀治  宮津藩士。維新の際、藩論を一決。恭順に向かわす。
             維新後、県知事。明治十四年迄中央政府に参与、後実業界に転じ
             晩年は上宮教会を設立。木戸孝充の義弟。



 平成15年12月18日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・明治維新そのB・・・・

 町のものはびっくり、丁度その頃、軍船が入港した。 
 葵の位の旗じるし。家の中できいていると表を通る中間さんの足音があはただしく、
海の方からは、ピーと船の汽笛がなっててっきり、海陸共同して戦争をやるにちがいないと、
めいめい米を袋に入れたり、火打ち石をもって加悦谷の方へ行かうとする者、
草履をはいて土間に腰をかけて、いつでも逃げる用意をしている者、などがあった。
正月20日の夜はお出なく、21日に到着になった。鉄砲は玉込めしていた。
 人夫の人ら町をブラ〜としていた。中には文殊の方へ遊びに行った者もあった。
接待には漁師の魚を全部買い上げてこうして25日朝立たれて峰山、
それから但馬の方へ行かれたもので、船はそのままおけといはれていつまでもおった。
この船は宮津沖が荒れたため、偶然入ったもので、御状がないのでいつまでも居った。
因州の士がのっていたが、余り永くなるので陸路歩いて帰って行った。
船だけがブカブカ残っていたが、ようやくお許しが出て帰った。

                                  ・・・・・つづく


 突然ですが・・・    こんなのもありました・・・・人生の楽園
平成12年10月〜12月
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平成16年1月23日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・明治維新そのC・・・・

  品川菊五郎

  ばくち打ちで宮津を出て若い頃京都へ行ってお茶屋をしていた。
その時分何でも壬生辺りにいて新撰組や新徴組に通じ勤皇有害の人らを
ほじくり出してつげ口をして公儀へつげ口した。
この者が宮津へ帰っていたが捕らへられ斬首(25日の出立ちの日に)
亀ヶ岡の石段の下に青竹にさしてさらし首になっていて人だかりだった。
菊五郎は元は士族、相当な家柄の出だった。大きな男で大菊といはれていた。
西園寺さんのみへた頃二十才と思ふ、色の白い細面の方で烏帽子ひたたれ
三上さん宅にそのとき書かれた短冊があるがあり合せのものを使われたのか
粗末な短冊で梅の詩五句絶句が書いてある。
庭先に梅の古木があるが、それを詠まれたものでせう。
字は山陽風でよく書いてあります。
この時分宗秀公は大阪においでだが、例の長州征伐のとき宍戸備後介らを
逃がした為隠居になり、@宗武公が相続になっていて江戸に居られたか?

                                  ・・・・・つづく


2月分はお休みでした



平成16年3月21日更新分
         

  
安達長蔵翁昔語り・・・・お札が降った話@・・・・
  

  筧さんが先に家の前を通られお会いしたとき、昔よいじゃないか踊りがあった
というが、本当かと尋ねられましたが、本当です。
慶応三年のこの年は箒星が出て二度みたが、案の中動乱の前ぶれだといはれた。
神よろこびといって老若男女踊り歩いた。寒い時分、お札さんが天から降って来る。
大神宮さん、八幡さん、稲荷さん、ケンサキさん、いろいろのお札が降った。
夜分も朝も昼も降った。町で百軒八十軒位降った。
店先に、お札が降ると早速神棚へまつるか、門にムシロをしきそこへおまつりをする。
お目出度うといってやって来ると酒を出す。
冷酒をのんでは、よいじゃないかよいじゃないかと踊り廻る。
お札は屋根の上から、通り、引っ込んだ庭にも降る。
天から降って来るのをみた人もある。但し家中には降らなかったあんばい。
江州に本荘家の御領地一万石があって、代官、奉行、手代と役があった。
筧さんの伯父さんの横川正造といふ人がそこへ行っていた。
或る日、門口にある大きな木の上から横川正造と呼ぶ声にびっくりして見上げると
変事があるから心せよといふ。それからお札さんが降ったりしたという話を聞きました。
神がかりのやうになって、予言的なことを口ばしる者もあったやうです。
お札は一枚づつばかりでなく、重なっていたり、水引をかけて
それに火がついて降ったのもあるそうです。

                                  ・・・・・つづく



平成16年4月21日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・お札が降った話A・・・・
  

  又、お札ばかりでなく人がふった事もある。
岩滝で女の人が傘をかついで 雪道を家の先を行くと 
その傘を後から引っぱるものがある、と。
体が宙に上って家の裏手へ落ち 雨戸をたたいて 
一寸あけて下さい という。
あけて何事ときくと 今こうこうでした という話。
舞鶴では一寸降ったそうですが 酒を出したりしてはならんと禁止になって 
止んだそうです。
宮津も家中にはふらぬ、在方もあまりふりません。
しかし、栗田や由良にも降って、家内は栗田ですが 栗田の港を踊りの行列が行く
おばさん よいぢゃないか、よいぢゃないかと。
おばさん どうでもよいぢゃないか と肩をたたく
よいぢゃ よいぢゃ、とうける。
国史略かなんかに 神よろこべば人よろこぶということが 書いてあったやうに
記憶しています。
10月頃からはじまって 本荘さんの心配事で謹慎になり下火となり、
西園寺さんがみへてからは 全くなしになりました。

                                  ・・・・・つづく



平成16年5月18日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・明治時維新の頃(補遺)・・・・
  

  西園寺さんのみへたときは亀岡5万石、篠山5万石位、
殿様は来られぬ先からお辞儀をしてまっていたやうだ。
宮津あたりが一寸手ごはかったやうだ。どうやらそんなあんばい。
宮津へ来られる前日は舞鶴でお泊りになった。
私が行列を見たのは今、梁川耳鼻科の家が元唐傘屋で
相当大きな傘屋でしたがその家からおがんだ。
夜の八時過ぎでした。雪の一尺五寸位つもっていました。
三上さんの御宅では表門を開いていず、待ち受けし、家族は
近くの親類へ非難させ、接待係が来てお手伝をした。
御同勢は全部で千人ぐらい。
因州の船は波止場から三丁か五丁沖、やめけばきこへる位の処に入っていた。
大菊がさらし首になったところは亀岡の石段の下、向かって右へ一間程の処に
青竹を三本組んでその上に首が置いてあった。
亀ヶ岡の石崖にいわれ書きを書いた紙が貼ってあった。
それを写し取っていた人もあった。二、三日どもあったでせう。
杉の末から二、三人番人がきておりました。
大菊にひどい目にあったバクチ打ちの連中が足でその首をけりに行ったそうです。
大菊の家内があってそれを貰いうけて葬ったやうでした。
大菊は元万年町に居った。出は士族。
お札が降った。
北野の天神さんのお札が五、六枚位降って、
それで名字を北野とつけた人があります。
そのお札をまつって居ったが、今はどこか知りません。


                                  ・・・・・つづく



平成16年6月21日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・明治時維新の頃(補遺)A・・・・
  

  ヨーバといって縮緬問屋で京都に調べ所があった。
丹後縮緬はその当時は宮津が一番本元といふことになっていて
そこの判がないと売られない。宮津から出張していた。
本荘家の京都の詰所みたい。
半官半民、官民合同、宮津の出張所。
河瀬さん@はそのこの主任、若くもあり、才子でやり手、勤皇家や
公家なんかと交際し、一緒に遊んであるいたりして世間をさぐった。
西園寺さんがみえる一寸前、不首尾でかへってみえた。
門を閉めて引きこもって謹慎してみへた。
何しろせまい処に様子が分からぬ人達、河瀬は遊んでばかりいてけしからんというわけ。
それで遠慮して外出もせず、門を閉めて謹慎してみえた。
お城での評定、議論まちまちになって一向にまとまらず、河瀬に奔走させようとなった。

沼野さん、河瀬さんのよめさんのお兄、沼野の老人が足を運んで
今回の危急存亡の状況、まかり出よ。
河瀬さん出て様子をうけたまはっていた。
あいさつにそれぞれ本部へ行ってお出でになったあけの日に西園寺さんは
馬にのって宮津藩の馬廻りの士が馬にのって御案内をして大手門から
お城にお入りになった。開城という次第でせう。
お通りのときに私はみた。
開城になったので、河瀬さん自分の邸をあけて柴田という御用人の家に入られた。
本宅は本荘家に、その家は今は■になって分かりにくいが、和田という
家があるも少しさきへ行った右手の方で、いづれ千坪ほどの邸、両向の門があった。
今はスッパリ変わっている。

                                  ・・・・・つづく

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     @河瀬さん  宮津藩士 前掲




平成12年10月〜12月
平成13年1月〜6月
(エジプト編)
平成13年7月〜12月
平成14年1月〜6月
平成14年 7月〜12月
平成15年1月〜6月
平成15年7月〜12月
平成16年1月〜6月
平成16年7月〜12月
平成17年1月〜6月
平成17年7月〜12月
平成18年1月〜


平成16年7月19日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・明治時維新の頃(補遺)B・・・・
  

  父は又兵衛、私は長蔵、表具屋、五代程になります。
天長堂はおじいさんの時から、もとは天長地久堂といったが、あまり長いので
天長堂とした。直入翁@が天寿長径堂となほしてつけられた。
今は安達長蔵では分からん人が多い。天長でないと。お上の表具の御用をしていた。

  西園寺さんのみえたときは鱈がとれ、これ御馳走は鱈ばかり。
私は十四になったばかりのときで三上さんのすぢ向かいの家、糀屋の息子(十くらい)と
お給仕に出てくれ、子供は無心でよいから。お給仕に出ました。
ひげ面のこはそうな人だった。
糀屋には十五、六人泊まっていた。薩摩の小隊長、今でいえば大尉位程の人でせう。
小隊本部、隊長は有村という人だった。
袋屋と由良屋が大隊本部、人足も何も入れて1000人ほど宮津に来たものらしい。
町では不調法があってはならぬと士族は謹慎。本荘さんは権威がない。

  河瀬秀治は元外衛といった。宗秀さんAの秀を賜って秀治と。
沼野秀正さんもそうです。
この二人は殿様のお気に入りだった。

  西園寺さんがお城へ御いでになったのは御着のあくる日か三日目だった。
本町通りかこの辺で拝んだ。
その時は烏帽子ひたたれ姿で旗は覚えていません。山陰道鎮撫総督としてあったか。
兵隊は鉄砲をもっていた。槍をもっていたのもあった。御城へ行かれたときは
馬方の人が御案内し、それにお供が二騎か五騎程。兵隊はついていなかったようだ。
午前であった。

  25日お立ちのときは朝おそくうごかしたな。ひる前でしたかな。

                                  ・・・・・つづく

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   @田能村直入  明治の南画家。 明治四十年没。  宮津へも来た人。
   A宗秀さん    本荘宗秀。  宮津藩主。  当時は長州問題で隠居。 
               天保より城主として 名君と言われる 与謝郡誌に写真が残る。



平成16年8月23日更新分
         

 
 安達長蔵翁昔語り・・・・
  

  算盤は普通の寺子屋では教えなんだ。教えられなかった。
それで別の処へ習ひに行った。町の隠居で出来た人の処や士族さんでも
藩の帳方、今でいへば大蔵省のやうなことをしてみへた人で出来る人があったもので
そういう家へ行って習いました。
弟子は寺子屋のやうに大勢でなく5人か7人位。
鈴木徳之介、柳縄手にみえた士族さんだが、大変算盤が上手な人でした。
生まれは上宮津、まずこれは大先生でした。

  平田丹海さんの処には100人もお弟子がありました。義一郎さんです。
丹海は号、一寸詩をよまれました。今おいでたら100は出ていなさる。
江州守山の代官をしてみへたことがある。息子さんは役場の収入役をしてみへた。

  私が学校に出た時分は助教といひました。代用教員。
教員になるつもりで京都に試験を受けに行ったが、途中でやめて帰った。

  盡道校は、今の稲荷の区会所。細野といった大きな家でしたが、
微禄してもちかねて、三上さんのものになっていたが、学校に貸した。
盡道校、本荘公の書かれたものがある筈です。
「盡其道」論語かなんかにある言葉です。その軸物もありました。
明治6年3月頃に出来た。普通の人家を学校とした。
大きな家でそのまま使った。

                                  ・・・・・つづく



平成16年9月17日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・お城の話
  

  宮津のお城は人に売りましたが、一人に売ったのではない。
御維新になってなんぼも経たぬ中に売ってこはしてしまった。
当時の官員さん その時の人は宮津の人でした。
初っ端は本荘公が藩知事、宮津の旧藩の人達が役人。
お城は官のものになって、その人らが管理して居った。そして売った。

  明治二、三年にはまだ売っていません。三、四年に売った。
この棟がなんぼ、この一寸物なんぼという風に入札で売った。
古物商や小道具屋、骨董屋に一棟でもわけてこの広間がなんぼ、
裏の方の・・・なんぼ。
一棟が二十両三十両、大道具屋が買った。そして瓦のやうなものは
大きくて間に合はんので石ころ同様、材木のよいのは大工に売った。
悪い分はたきもの。

  大手の門あたりは二十円にもつかなかったでせう。
大きな太い柱があったが中は虫が喰ってうつろ。そんなものはどんどん
燃してしまった。
炭にして売ったのもある。消炭が一俵二俵と沢山出来た。
地所もお払いになったのだが、買手がない。一坪が二銭か三銭でした。
今、水産講習所になっているあたり一銭五厘か二銭それなのにだれも
買手がない。
役人の人が買った。その金は政府へ落ちました。
豊岡県に落ちました。豊岡県になったのは明治四年、その頃です。
売却になったのは、ともかくやり方が早くひどかった。
宮津の城か膳所の城かといって。
舞鶴が取りこわしになったのはまだ一寸すくわれていました。
宮津は官員さんが若い人だったからどうしても。

                                  ・・・・・つづく



平成16年10月19日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・旅の話@
  

  飛脚なんていふものはなかった。
宮津藩の御用商人のやうなものがあって御用のあるときは一人
二人と御用にたつ。御上に何か事があって人足が大勢いるときは
あつめて御用達をしたもの。そういふ請負師みたいのなのがありました。
京街道の品川半兵衛といふ人。

  郷賦頭
郷賦といふのは人足が大勢いるとき石川郷で何人、加悦郷で何人という風に
人足の割当がある。その折その人数を請負って揃へ自分はその頭になって
刀をさして士分となってその監督をする

  お武具方といふのがある。二、三人士格となっていて、武具の出し入れをする。

  町の人が遠方に手紙を出すときどうするかといって別に何んにもない。
町人の○○には行かん。御家中の方が江戸へ行けるげな。
手づるをもとめて、頼むという位。また遠方に用もない。
そのころは江戸へ行くといったら今の旅行よりもう大へん。
出かけに水盃をして行く。
町人で江戸を見て来てたものといへば町でも数えるほどしかない。
本町で四人、白柏町で二人か三人、私が二年ばかり江戸に行って居ったが
かへってからいろいろとくはしく人に話したものです。
士族さんの方でも少なかった。用がない。

                                  ・・・・・つづく


平成16年11月19日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・旅の話A
  

  江戸に行くにはまあ一月はかかる

  大抵殿様の一日の道中は7里。
150里として二十二、三日、川止めに会ったりして殆ど1ヶ月。
江戸に行った人の話に、今日も東へ今日も東へ天へ上るやうな心地がしたと
毎日毎日、天とうさんに向かって歩くのだから、そんなものでしたろう。

  私のおじの話に、
嘉永6年5月の末、殿様@にお供して江戸へ行ったが
もう5日か6日したら江戸へ入るといふ日、殿様は籠にのって江戸へ向かう。
江戸の方から早籠が来た。
何事だあれをとめて聞いてみいと御言ってお供して居った角力取の
(鉄かぶとといった)が、道の道中に両手を弘げてったった。
大きな男で、その頃の路はそんなに弘くないので通せんぼをさせて籠はとまった。
聞けば異国船が入って江戸は上を下への大騒ぎ、国許へ注進に急ぐのだといふ。
殿様は籠を急がせて江戸へ。

  ペルリの入ったのは6月3日、5月中頃に宮津を立って6月10日頃
江戸についたあんばいです。
そのときは何十といふほど早籠が来たそうです。
各藩、国々へ走って知らせに行った訳でせう。
そのときはじめて早籠をみたということでした。

  
                                  ・・・・・つづく

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    @本荘宗秀


            

平成16年12月21日更新分
         

  安達長蔵翁昔語り・・・・宮津の画人の事ども@
  

 西村奇石さんは

  生まれは天保頃、今居られたら百十四、五でせうか
85才で死なれました。
京街道の内藤から西村家へ養子に行かれたのです。
親類になるので後を継がれたのです。
奇石さんは元、子供の頃、今の監獄所の横に菅沼という人がおられ
その人が絵の上手な人で教へて貰った。
少し大きくなってから和田屏山に習った。
屏山は岸駒の門人です。そのつてで京都へ出、岸連山の弟子になった。
子供のときの手ほどきを屏山にして貰ったのです。

  本荘さん@まぁお抱えみたいで殿様のお供をして江戸へも行って居った。
まことに欲のない人で、世間も今日とは違っていたが、ほんうぶな人でした。
大きな男で外側の郡是の辺にみへた。
小野次郎氏の家の隠居さんの家の横に宅があった。
後に吉原へ引っ越されて、今安達さんの家になっている。
前の家が狭くて古いので御講といふ人でもないが、心安いもの達がいろいろと
世話して社中が建てて上げたやうなものです。
若いときは加賀の方へ旅し、その後、山陰道、因州あたりまで。
遊歴はそれ位で、ずーっと宮津にみへた。奥さんは出石藩からみへている。
  
                                  ・・・・・つづく



平成12年10月〜12月
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平成18年1月〜


平成17年1月21日更新分
         

安達長蔵翁昔語り・・・・宮津の画人の事どもA
  

  作は宮津に方々あります。

  大抵の士族さんにあります。
黒川さんにも二幅か三幅あります。
花鳥が専門でしたが、どんなもんでも書かれました。
ことに龍虎・花鳥ですな。
四十位迄はg石と書かれたが、それからは奇石でした。
門人には羽賀鳳声、それから他所の者だが綾部で菓子屋かをして居った人があったが
死んだ。
外にはちょいちょい習っていたものがありました。
今じゃ門人といっておるのは羽賀位のもの。少したよりない。
舞鶴で今でもいるが福田岩蔵は相当かきました。
羽賀位の年配です。号は薫山(三十年前のはなしですが)

  和田屏山は奇石よりも10か20上。
明治初年、大阪かどっかで旅先で亡くなりました。
今みへるとすれば130あまりでせう。
文化か文政の人でした。
宮津の魚屋町の堀川、塩屋太兵衛の息子で岸駒の弟子。
家業は娘にさして置いて、京都へ遊歴してあちこちうろうして
明治初年こっちへ帰って加悦谷か日置の方へ大抵居った。
作品は奇石さんほど宮津にはないが相当ある。
経王寺の天井の龍。
よく肥へたひとで背の高くない人。70位でなくなりました。
町には流行らんので加悦や日置に行ってみへた。
日置は沢山作があります。
岸風のものはその当時流行らなんだもんで、奇石さんも遊んで居られたやうな
あんばい。
  
                                  ・・・・・つづく



平成17年2月16日更新分
         

安達長蔵翁昔語り・・・・宮津の画人の事どもB
  

  文一さん、この人は温和しい上品な人、40一寸で死なれた。
屏山時代の人。大分古いから町にも持っているものは少ない。
士族で食ふ方の心配はない。やっと書かなかった。
いたって偏屈だった。京街道、今の佐藤病院の大久保の方に住んで居られた。
若い時分、文晁の養子。本荘家によばれて来られたらしい。
古物の好きな人でした。
奇石さんとは年も席次も一寸上。
まあこの三人位、二百年の間の宮津の画家としては。

 書では梶川大窪さん、沢辺北溟さん。文政時分はこれは第儒。
飯島墨池、澤村墨庵。江戸から帰ってみへた人ですが
梶川さんは書も良いが儒者です。
素人がみては良いか悪いか分かりません。

 山王さんの神武の額は宗秀さん。これは元禮譲館の撃剣場にあったもの。
明治初年に山王さんに上げた。桜山の天神さんの額が梶川さん。
禮譲館の額、落款がないが彼です。

 宗秀公のお墓の文字は墨池さんの筆。
武秀公のは田副さん。
書家といふのでもないが尾見さんはちょいちょい書かれた。

                                  ・・・・・つづく



平成17年3月16日更新分
         

安達長蔵翁昔語り・・・・宮津の才人の事ども
  

  杉浦清兵衛さんは才子肌でした。
私の伯父が申したが杉浦さんの才に梶川さんの学問を加へたら
えらいもんだと一般の評判だったそうです。
学問も根が才子で相当出来たらしい。

梶川さんは学者肌。
梶川さんの学問を杉浦さんにもたしたら大したもの。
清兵衛さんはやり手で本荘公にお供して大阪に行って不首尾があった様だ。
梶川さんは文化強訴事件の沢辺北溟さんの弟子。

飯島さんは背の高い人だった。
梶川さんは年のせいでよぼよぼしてみえ
大きな文を書くのに立って書いて居られたが、二つ折みたい身体がなっていた。
明治二、三年頃死なれましたかな。
息子さんはやり手だったが、惜しいことに早く死なれ、亡くなったのは30位でしたかな。

この近所で昔のままの家は袋屋。家は昔のまま中は変わっています。
三上さん、これは百年かはらぬ。門やなんか昔のまま。
今林さんも百年やそこいらいまのところにおいでです。
家は建替てから三、四十年ですが、旧家ですな。

                                  ・・・・・つづく


4月は都合によりお休みしました



平成17年5月18日更新分

安達長蔵翁昔語り・・・・郡中制法の事
  

  鳥居さんは大参事。区長制のとき大区長をやて居られた。
郡役所、カドノ郡の郡長も新聞の主幹も一寸してみへたやうです。
ちょいちょいそんなやうなこともして顔役で近年なくなられた。
濱岡ユーテツ、あの人とも極懇意だった。
神鞭さんとはいたって懇意。
宮津藩初代の権参事本荘さんが宮津藩知事のときはじめは森さんが大参事。
伊従さんが権参事。当時の役は大参事、権参事、小参事、権小参事、小属官、
権小属官という風になっていた。
明治4年に廃藩になり豊岡縣になり、役人が来た。
2人か3人であとは土地の者。ごくわずかな人数でおさめていた。
宮津****役所、豊岡縣役所は共に今の町役場にありました。
明治9年に京都府となった。

  初代町長は沼野秀正さんは明治13年頃で三十四、五でしたでせう。
やり手という方ではないが、おとなしい人で何といっても一家老の家柄、
行儀のよい正直なかたい人、人格者。才人ではないけれども。

  郵便局のはじめは品川半兵衛。
間もなく四、五年もして、三井さんがせられ次に白柏の宮城。
品川は今、土屋という牛乳屋の向側、店はせまいもので午前と午後と二度位、
牛乳五本か十本く、私の友達だったがおやじの名前でやっていた。
私と四つ下。何も用がないからふるでも寝転んだりしていて話込んだもの。
士族から養子に来ていて40位で死にましたやろ。
三井さんの宅になって大きくなったが、間もなしに三井さんがやめまして
宮城惣七さんが二、三年やり、息子の興平さんがついでやられた。
そのときは三等局でした。
この郵便局は宮城さんのとき出来た。

                                  ・・・・・つづく



平成17年6月16日更新分
         

安達長蔵翁昔語り・・・・明治の頃
  

  大手橋はこの辺にない大工事でした。大分長くかかった。
二年ほどかかった。先のは板橋だった。
そのときの土木役から白木といふ人と宮津藩士の杉山といふ人と
二人の役が来ていた。

  19年から22年位まで、その間、横に仮板をかけた。
出来上がったときは渡り初めもありました。
栗田トンネルの出来たのも同時です。
売間九兵衛は波路村で相当な百姓。
栗田峠を民業で切下げやうと前々から骨折っていた。
政府でトンネルをあけることとなって
京都からの役人の下になって奔走した。
発起者として立派な碑が立っている。
出来る中は土木役に雇われてみえた。
波路の相当な百姓だったが私財あれに費やしたことでせう。

  維新前の町の景気は七万石の御城下で何事にも、竹野、中郡、
在々のものが宮津へ出て来んと用事が足せぬ。
人気がたって繁盛でした。
縮緬は昔が宮津が本元。京都の検査所、宮津、岩滝、加悦
中郡と宮津が代表だった。
今日は峰山それも竹野郡網野方面へとだんだん奥へ移って行くやうです。
亀ヶ丘の金の灯篭には宮津絹屋中としてある。
これは縮緬屋中が寄進したもの。何千円とするものでせう。
その位、縮緬屋が盛んで勢力があったものです。

                                  ・・・・・つづく


平成12年10月〜12月
平成13年1月〜6月
(エジプト編)
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平成14年1月〜6月
平成14年 7月〜12月
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平成17年7月20日更新分
         

 安達長蔵翁昔語り・・・・明治の頃 その2
  

   俳句。現在、二組や三組、会がある。
 四代荒木萬頼といふは日本宗匠。士族さんも一寸上手があった。
 荒木萬頼は京都芭蕉堂にも居った人。コードー院様といって
 名君の頃、江戸へも行った。

   明治元年頃こっちは俳句ははやらん。一寸文章を書くといふ方が
 字は御家流は駄目で唐様。
 絵は丁寧な絵は駄目で文人画、南画、岸風の絵は売れない。
 奇石さんも困られた。流行は千変万化でそのときそのときの流れです。

   若いもんといふものが町々にありました。
 屋台に出るのは若い者の仕事になっている。(年寄も家役で出ることもあるが)
 本町の若いもん、白柏の若いもん、萬町の若いもんといふ風にありました。
 明治五、六年頃若いもんなぞ徒党を組むものは廃止
 という布令でやめになったことになっていますが
 今でも屋台の若いもんといふのは残っています。

                                  ・・・・・つづく



平成17年8月24日更新分
         

 安達長蔵翁昔語り・・・・明治の頃 その3
  

   家は殿様の御用表具師だった。

   お上はいろいろよいものがありました。
 ほんよい物は御用金のために下りました。
 明治初年、廃藩のとき、何々の村にはなんぼ
 何々の村にはいくらのと身代相応に割当がありました。
 その頃、三上さん、今林さんなどが上の部。
 一等、二等と300円 250円 200円という風に「お上のお金」が割当られた。

   本荘家がいよいよ御引きになるについて金も要る、そのために有志を
 廃藩になるときにお役人から頼まれました。
 300円(両)のかたに屏風、軸物、鎧、刀、何々と五品。
 200円のかたには何々という具合に。
 品物によって300円出したものが、1000円にもなるものをもらったり、
 200円だして50円にしかならんものをもらったといふのもありました。

   江州守山にも「お上のお金」がありました。
 お下げ流しの品はおお預かりの品といふ名目で御用立てした。
 残ったその他の道具はせり売。
 必要なものだけ本荘家に残して、お分れ金ともいはれた。

   宗秀公は伊勢の大宮司になってみえた。
 宗武さんは一宮の宮司をしてみへたことがあります。
 二、三年位でしたか、宗武さんは江尻にしばらくみへた。
 それから東京へ帰られた。

                                  ・・・・・つづく



平成17年9月22日更新分
         

    安達長蔵翁昔語り・・・・明治の頃 その4
  

     亀ヶ岡は今の前の広場もずっと山だった。
   安政頃山をくだいて御台場をつくった。
   水ながしをかけて新浜の地面も埋立て。
   亀ヶ岡はもとは本荘家の公園で稲荷さんが祀ってあった。

     文久三年、慶応元年、殿様に御用があって江戸へ行かれ
   宗秀公は亀の形にするつもりで指示して置いて江戸へ行かれ
   帰ってみられてみると思った様になっていない。
   俺のいうといたのとちがうと御隠居さんんは御不興でした。
 
     それやこれやで中止みたいになって石崖も全部しない。
   石崖は三人に分けてやらせたので三様になっている。
   波止場の地主権現を移して祀ったもの。それで権現さんといった。

     昔はお祭りには鉄砲や武器を飾ったり盛大でしたが、
   御維新後、かまはぬ様になっていた。

     明治九年、皇太神宮さんをお祀りする様になった。
   亀ヶ岡というのは御城内の昌国神社に社した名で
   それで横の町を万年町という。
   名前も皆、その由縁から。

     島崎には御台場があった。海の方をざーっとお城でかこって
   元の方にこんな(一尺二・三寸)大砲が六門か七門、
   抱えてありましたが、これも売り払いました。
   あとが広っぱになったのを後で公園が出来た次第。

                                 ・・・・・つづく



平成17年10月17日更新分

   安達長蔵翁昔語り・・・・明治の頃 その5
  

     漸髪になったのは明治6年頃、
   自今断髪をなすべしと御布令があって若いもんや老人が
   ちょくちょくしはじめた。
   私は早う、宮津にまだ4、5人位よりないときにやりました。

     中々やかましい達しでしたが、それでもやらん。別に罰もない。
   しかし何人だか因巡のやうにみられて段々にやりました。
   若いもんが先にやりました。一番しまいに老人。
   一度やって置いてまたはやしてちょいちょいとした奴を
   はやしている者もある。
   明治7年の1月この頃にちょいちょいとやりました。

     中々面倒なこってやりません。
   何度もやかましく達しが出ました。
   それでも罰金もとられないのでやらうとしない。
   しまいにやらぬと因巡のやうにみへて皆やりました。
   髪結床で鋏でジョキジョキと長く伸ばして分けた。

     士族さんは先に切りました。
   明治3年か4年にきりました。明治初年の維新の戦争には
   宮津藩は官兵として出張した。

     明治2年位、軍隊は廃止になって、兵隊が100人。
   その人らが越後へ行って戻ったときは漸髪をしてみえました。
   行きがけは丁髷があったが、戦争はないやうだった。
   いや宮津のものでそのとき戦死した者が一両名あった。
   越後から奥羽へかけて不安でした。
   宮津藩兵隊といふことになっていました。隊長は森さん。

                                 ・・・・・つづく


 平成17年11月15日更新分
         

    安達長蔵翁昔語り・・・・調練の事
  

     橋立で折々、調練があった。
   普通の折と大揃ひのときとあった。
   網野の方へも行った。網野は宮津藩の領地。
   久美浜の代官所と入れ混じって居る。
   網野の浜まで行った。
   
     越浜でもあった。御維新前の時分、足並みを?むといった。
   何かしらジャン〜ジャン〜といって太鼓をたたいてほら貝をブウブー。
   土下座をして頭を下げている。
   顔だけ横へ向けて見る位。子供の頃。
   大太鼓がドンドン。
   チャンカチャンカ、チャンカ腰太鼓。
   ピーピーと笛。
   ひさしのそった黒塗りの笠さしている。
   元はオランダ式だった。
   仏式になり英式のこともあった。いろいろになった。

     ブーブー ドドン その次に〆太鼓 腰傍につけてたって
   それから大太鼓 ドンドンドン。
   それから横笛のあったこともある。
   大方フランス式、大太鼓その前は笛でした。
   ほら貝もありました。
   時代で時代で変わっていました。
   越浜であってそれをみに行く。
   一番手、二番手、三番手と三師団その三つがみな出る大揃いの
   ときは殿様がお出かけになる。

                                 ・・・・・つづく



 平成17年12月16日更新分
         

    安達長蔵翁昔語り・・・・宮津藩主本荘宗秀の事ども
                             @

     殿様は御役大名でして江戸に居られた。
  土地に居られることは少なかった。
  宗秀さんはもと若い時分、神道仏法を修められました。
  後、大神宮司にもなられた。
  いつもよく拝みました。

     つけつけ顔を見ることは出来ませんが、子供のときで後から見る。
  向こうからお見えになると御隠居さんだというので通りに居る者は家に入る。
  またすれ違うこともあるが、声をかけることは遠慮。出来ぬ。
  
     宍戸備後、田村を逃がしてから御隠居といふことになられましたが、
  御隠居様、羅紗の頭巾で顔を隠して鞭を持って随行二三人をつれ
  町などをブラブラお歩きになった。

     笠をかぶって目だけを出して。お出だ、お出でと家に入って遠慮している。
  ものを言うことは出来ない。すれ違うこともある。二三人随行がついている。
  宗秀さんのことを御隠居さん、御隠居さんと言ったが
  他所の人など御隠居さんてどこの御隠居さんかと聞かれる。
  私ども御隠居さんといふと宗秀さんと決まっていた。
  お上ともいふが、御隠居さんともいひました。

     59か60位で隠居されたろう。
  背は普通、恰幅は悪くない。
  いつもにこにこしてみえて、大名仲間で丹後の笑い恵比寿と言われておった。
  柔和な態度のよいお方でした。

  
    @宮津藩本荘家六代目藩主。神道家としても知られ能書家でもある。
      第二次長州戦争の折、長州藩の捕虜(文中、宍戸田村とあるところ)を独断で開放。
      ために蟄居することとなる(それでこの文中では御隠居さまと呼ばれている)。



                                 ・・・・・つづく

平成12年10月〜12月
平成13年1月〜6月
(エジプト編)
平成13年7月〜12月
平成14年1月〜6月
平成14年 7月〜12月
平成15年1月〜6月
平成15年7月〜12月
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平成16年7月〜12月
平成17年1月〜6月
平成17年7月〜12月
平成18年1月〜


 平成18年1月20日更新分

     文珠の一木さんは文化か文政頃の方丈で有名
  茶席の床置きにもある。

     幽楽媼は鳥居閑太さんのおふくろ。江戸で結婚された。
  あま上手ではないが、絵も書かれた。歌も詠まれて焼物に刻まれた。
  七十あまりで死なれたらしい。
  焼物は自分でやられたかどうか分らぬ。
  今の佐藤病院の上に家がありました。
     
     一木さんの弟子で国清寺の方丈に一枝@という人があった。
  有名ではないがよい。一木さんのものは、めづらしく床置きにもなる。
  ひょいひょいとある。

     幽楽は京都の連月尼の心持ちで焼物をやったものでせう。
  学問もある人だったらしい。

     文一が30才余りで死んだとあるが、これは初代文一のこと。
  宮津に来て居ったのは二代文一で70才位で亡くなりました。
  文一と内山さんは血縁です。

     波路の鉄砲屋といふ鍛冶屋とあったが、これは藩お抱への鉄砲師、
  国友といひました。江州からやって来たものだといふのです。
  お台場は警察の裏の方で海岸のところに高さ一丈位の土手をつくり
  大砲がその内側にすえつけてあった。
  大砲は七人の有志で出来たもので千両筒と申し、三上さんやら
  今林さんらと寄附者の名が一つ宛てに彫りつけてあった。

   
@一枝は誤記。正しくは一支。

                                    ・・・・・つづく



 平成18年2月20日更新分


     宗門改めはお寺へ行く。
   ○○紙に寺うけと書いて「何々の宗旨にまぎれなく候也」
   と大きな字で書いてあり大きな寺印の押してあるのを買って
   名主さんに納める。

     正月、寺へ礼にいって貰ふのですが寺につとめが悪いと寺うけをくれぬ。
   耶蘇教の九州天草騒動があってからだ。
   戸籍調べというのでもないが、十二月一日位にその時分の御役人、
   今でしたら警部や巡査に町内の組頭とかいうやうなものが附いて、
   今日は本町、次、万町と順々に。
   町内、町内の役人がついて各戸を廻る。
   お門ま(お門までの略か)お門まさん、お門まさんといっていた。

     役人二、三人、区長さんのやうな人が門を入って来ると
   草履をはいて庭へ出て平伏する。
   「どうぢゃ何も変わったことはないか」と訊かれる。
   「何もありません」とさはらぬ神と返事をする。
   町で御馳走して。
   年末にあるのですが、日はきまってゐません。

     生まれたり死んだりの届出も役人まかせでいいくらいのもの。
   明治21年頃に戸籍の編成がありましたが、手伝って私は上宮津の分を
   受持ちましたが、名前など間違っていたりしました。
   郡役所に心安い人があって分らぬところは
   その人に相談したりしました。
   明治二十二、三年頃のことです。
   昔は子供が生まれても届けを忘れて一年もしてから届けたりする。
   それで二十七、八になって徴兵検査がかかって来るというやうな
   者もありました。(その当時は検査は二十五才)

                                    ・・・・・つづく




 平成18年3月15日更新分
          

     町に名主は、大庄屋は帯刀御免。
   本町が十か八つの組に分かれていて、1組20軒位。
   一番組、二番組といふ風になっていて本町には八番組迄あった。

     組には組頭がある。その上に名主といふものがある訳です。
   名主は本町の人で、又その町の名主、
   たとへば魚屋町の名主をすることがあった。
   世襲といふわけでもない。
   人物で、本町の殿村なんかも名主をやっていたこともある。
   三上さんは濱の名主。一流の顔。
   一寸、金もあり人望も出来んとなれない。
   今林さん、一、二代位、三上さんは二、三代つづけて名主だ。

     御奉行さん、今の府の役所さん位。
   お目付さん。
   御従歩目付は町をうろついて監視する。
   同心は番人が。
   荒木の別荘二軒番人頭の家。
   御家中の村々にそこの子分があった。
   日々頭の家につとめる。そしてうろうろ歩く。
   四尺位の棍棒を持って歩く。
   頭は十手をさしている。
   牢屋は大久保裏だけ。牛乳屋をしていた辺。
   もう一ヶ所あったが覚へていません。

                                    ・・・・・つづく



 平成18年4月18日更新分
   

     その時分の医者では横浜にオートーといふ外人が居って
   そこで修業する今の○○のやうなもの。横浜しかなかった。
   安田良賀さんは三河内の人。
   それについて修業し、はじめて宮津で開業。新医のはじめだった。

     ランプ、二両も三両もするものもあったが、
   普通は六、七十銭のものを用いた。
   浜見医院で始められ、その後、今の家に移られた。
   元、小林柳庵といふ藩医の家ですが、その跡を買って入られました。
   ランプを買って帰られたというのは明治5年頃でせう。

     時計やなんかまだなかった。もっとこっちの頃でせう。
   開けた人はもっていたかも知れません。
   士族さんなんか江戸から買って帰った人もあったかも知れん。
   役人さんなんかも持っていたかも知れません。
   あそこには時計があるといったもの。
   ひらけた人は早く買った。その人の風によって。

     人力やなんか、明治9年に来た。
   ひきはじめたのは、それは亀ヶ岡の大神宮さんを迎へたときで、
   これは大へんな賑いでした。
   お伊勢さんが移ったやうなものでした。
   京都から、二人の車手と二台の人力が来た。
   明治9年の5月でこれが人力の宮津に入ったはじめです。

                                    ・・・・・つづく





  平成18年5月19日更新分
          
    安達長蔵翁昔語り

     昔の時報は中橋近くの太鼓門の太鼓。
   大膳橋の鐘つき堂、外側の波路に近い処にあった。
   亀ヶ岡に鐘楼が出来たのは明治2、3年頃。
   町の時鐘を鳴らした。
   この鐘は愛宕さんにあったのを持って来た。
   役場の屋上の櫓の太鼓は何の太鼓か知りません。

     久美浜県が一年位でそれから豊岡に移った。
   この辺も久美浜県といった。
   一年くらい久美浜には天領があって、
   その代官所をそのままつかって一寸の間でした。一ヶ年か二年位。
   明治2年か、3年か知れません。
   知事は府だけ。県令、権令、参事とあって豊岡県は権令でせう。
   久美浜県は参事。田中光儀といふ人でした。
   当時はえらい勢いのものでして、御前さんといふた。
   豊岡県もはじめは参事。次の人から権令が来たやうです。
   

                                    ・・・・・つづく




  平成18年6月20日更新分
          
    安達長蔵翁昔語り

     昔は行灯でしたが、普通の家は一軒に行灯一つ、燈心二本でした。
   倹約な人は心一本。
   本などを読めぬ八方といって酒屋や料理屋には大きな行灯があった。
   心を五、六本、木の骨でもって八方にふくらんで紙を張ってある。
   中にかわらけがあった。
   店の○○の上につってあって、紐で上げ下ろしが出来るやうになっている。
   大へん明いやうに思って、どことこには八方がついとるから
   庭があかいといひました。


     
行灯が表にあるのは、料理屋や風呂屋、そばや、ぜんざいや、
   まあ飲食店でした。
   新浜は周り八寸角位の行灯が戸毎の門口の柱。
   手の届く位のところにとぼっていた。
   ○○さんのまわりのあんどんのやうなのです。
   ○○楼と書いてあった。
   奥に行くと八方の下で長火鉢を置いて主人が坐っている。
   在所の村には八寸がありません。ローソクをつける位。

   

                                   
 ・・・・・つづく


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